【前編】私達の葬儀とお墓は、いつも…変わってゆく話。

現在では、どんな形であれ葬式を行い多くの人々が墓を持つ時代です・・・

ですが…長い目で見ると、その時代もスグに過去のものとなってしまいます。…というのが、この2つの書籍から解ります。

▼ 参考文献

権力の象徴として造られた古墳は生者の都合で不要となり、やがて庶民のお墓ですらも…生者によって無縁墓になる時代です。

当時の生者達が、葬送や墓制に何を望んだのか? そして、生者の環境や生きた時代によって葬送や墓制の常識やトレンドも大きく変わることがよくわかります!

このページでは縄文時代~戦国時代までの葬送と墓制を紹介します。後編では、江戸時代~現在までを紹介します。

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中世までの内容

縄文時代から中世までの葬送・墓制は、皇族・豪族・貴族・武士などの権力者の内容がほとんどで、庶民の史料が目立ち始めるのは江戸時代からになります。

縄文時代

・約12000年前 ~ 紀元前3世紀

縄文時代の生活

  • 人々は一定の場所に住み、集落を築き安定した生活を送る
  • 土器が開発される
  • 自然の恵に対し祭りを行い、祈りをささげた

現在のお墓、お葬式といえば…仏教やお坊さんをイメージしますが…

すでに…この時代から日本人は自分達で死者を手厚く葬ってきました。豊かな自然と四季を感じ、人も地中に埋葬する事で再生を願ったのかもしれません。(腐敗した見た目や臭いの問題もあったと思います)

死者への弔い

■ 副葬される遺品

縄文時代から、墓地、土葬、お墓など…現在と同様の風習が起こっています。

また、副葬品[ふくそうひん]と呼ばれ…故人の遺品を持たせる風習も、すでにこの時代から始まっています。

他には、埋葬した骨を別の場所へ埋葬しなおす改葬[かいそう]や骨を土器に入れてから埋葬する方法も行われていました。

お墓の種類

お墓の種類は、遺体を素掘りの穴に埋葬する土坑墓[どこうぼ]、土坑墓の上に石を並べる配石墓[はいせきぼ]などが存在していました。

奈良時代あたりまでの墓は、現在のような石塔が載っているイメージではなく、土に埋めるか…土を盛って高くした状態が墓となります。

祭祀儀礼

当時…複数の集落が新しく集落を形成するときに、それぞれの先祖の墓から骨を掘り出し、改めて一緒の墓に埋葬しなおしました。

これは、共同生活による緊張を解消する手段として機能したそうです。当時の葬送儀礼は、集団を統合する際のセレモニーとして行われていたようです。

また、別の時代や地域によっては中央の空間を囲むように環状帯の墓が並んでいたことから、その中央で何かしらの祭祀が行われていたと考えられます。

弥生時代

・紀元前3世紀 ~ 300年頃

弥生時代の出来事

  • 水稲耕作が始まる
  • 優れた人々が現れ、階級社会となっていく
  • 各地でムラとムラが連合しクニができ争い始める
  • なぞのクニ…邪馬台国の卑弥呼が登場

弥生時代になると、複数の集落による共同墓地が増えてきます。

年代や地域により様々な墓が作られ、縄文時代のような土坑墓や配石墓、そして新たに…棺に入れて埋葬する甕棺墓[かめかんぼ]や石棺墓、木棺墓が登場します。

後期になると、土を盛り上げた丘を墓とする墳丘墓[ふんきゅうぼ]が作られます。

卵のような棺…甕棺墓(かめかんぼ)

北部九州で多く見られた甕棺墓(かめかんぼ)には、中国製青銅器や銅鏡、ガラス製品が副葬されました。

また、階級(身分)によって副葬される品が異なっており、有力者ほど多くの品が副葬されています。

古墳へと繋がる周溝墓

■ 方形周溝墓

他には、近畿地方で発症した周溝墓[しゅうこうぼ]が見られるようになりました。

特に代表的なのが、墓地の区画が溝で別けられ、家族や一族単位で埋葬できるスペースを持つ方形周溝墓[ほうけいしゅうこうぼ]になります。

石・木・甕[かめ]の棺も使用

埋葬する為の穴には、石や木材を組み合わせた棺が作られ、丁重に葬られていることが確認できます。

古墳時代

・300年頃~700年頃

古墳時代の出来事

  • 近畿地方でヤマト王権が誕生
  • 前方後円墳などの古墳が各地で作られる
  • 階級差が広がり、生活レベルが異なってくる
  • 仏教が伝わる

各地の豪族は様々な形の古墳を作り始めましたが、ヤマト王権の成立とともに、教科書でも有名な前方後円墳がメジャーになりました。

ヤマト王権が、連合するクニにも前方後円墳を許可した為、畿内を中心に多く作られたようです。

古墳は個人の為のお墓

■ 前方後円墳

弥生時代の墳丘墓は複数名の墓でしたが、古墳は特定個人の墓となります。

古墳にも多様な種類がありましたが、やがて方型や八角型のコンパクトな墓に変わっていきました。また、棺を納める部屋が竪穴から横穴になったことで、個人専用だった古墳が2名以上を葬ることも可能になりました。

長期間…長く続く通夜 <殯[もがり]>

天皇や豪族の葬儀では、現在の通夜にあたる…殯[もがり]を数ヵ月から数年間とりおこなっていました。

殯[もがり]では、本葬までの間、亡くなった人を仮設の建物へ移し、その中で様々な儀礼が執り行われました。

庶民のお墓は?

大王や豪族が大きな墓を作るなか、庶民のお墓は…というと、良くて…土葬、山や河川に運ぶ風葬も普通だったようです。

古代

 奈良・飛鳥時代

・飛鳥時代[600年頃~710年]
・奈良時代[710年~794年]

飛鳥・奈良時代の出来事

  • 聖徳太子が摂政となる
  • 王族や豪族が氏寺(飛鳥寺・法隆寺など)を建て始める
  • 蘇我氏に横暴に中大兄皇子らが奮起し大化の改新に発展
  • 仏教に頼り聖武天皇が東大寺(奈良の大仏)を建立する
  • 乱れた仏教界に、正式な僧の証として戒律を授ける為、鑑真が来日
  • 藤原氏が栄え始める

この頃になると、薄葬礼の発布や律令制を取り入れ、墓の造営が制限されてゆき、次第に古墳の数も減少しました。

また、仏教を支持した蘇我氏の繁栄により、国の政策として仏教は広く浸透します。

火葬の始まり

700年前後には、仏教の普及もあり火葬が始まったとされ、天皇や僧侶が火葬されました。

この後…貴族などにも普及し、焼骨は現在と同じように骨容器に納められ埋葬されました。

菩提寺(氏寺)が建てられる

祭祀儀礼の場所として、現在の菩提寺[ぼだいじ]となる氏寺[うじでら]が建てられるようになります。

聖徳太子:法隆寺
蘇我氏 :飛鳥寺
藤原氏 :興福寺
安倍氏 :安倍文珠院

墓標や墓誌の登場

今では当たり前の、名前を刻んだ石の墓標や墓誌も、この頃から作られたようです。

 平安時代

・794年 ~ 1192年

平安時代の出来事

  • 桓武天皇が平安京へ都を移す
  • 中国から最澄が[天台宗]、空海が[真言宗]を持ち帰り朝廷から保護される
  • 関東に勢力を伸ばした平氏から平将門が生まれ朝廷から独立をはかる(平将門の乱)
  • 平清盛が躍進し、朝廷内から藤原一門を追い出し平家政権を樹立。

この頃、天皇の葬儀では薄葬が好まれたり、それを否定する動きもありました。

淳和上皇(53代)は散骨葬を命じ、嵯峨上皇(52代)は継続的な祭祀を不要と墓に埋めるだけ…と命令。しかし、当時では受け入れがたいと感じられた事もあり、仁明天皇(54代)は薄葬思想を否定しました。

墓地のそばに、寺院が建てられる

陵墓[りょうぼ]のそばに菩提を弔う仏教寺院が次々と建立され、関係を深めていきます。やがて…寺院の敷地内に天皇や皇族のお墓ができるようになります。

陵寺 泉涌寺[みてら せんにゅうじ]

現在では寺院が墓地を作って販売していますが、当時はお墓(供養)の為に寺院が建てられました。

平安貴族の葬儀

現在の葬儀は日中ですが、この頃の葬儀は夜に行われていました。永眠後は安置室に移され、逆さ屏風[びょうぶ]や納棺、旅支度の様子も確認できます。

出棺の際は、葬列を組んで火葬場まで向かいました。

出棺後…家の中をホウキで掃いたり、行きと帰りで違う道を通ったりと…他界観や悪霊・御霊などを意識した風習も始まっています。

平安貴族のお墓

お墓は、お堂や塔などが寺院の近くに建てられ、その中に遺骨や棺が納められました。

今のお墓は、墳墓[ふんぼ]と呼び、地面の上に石塔が建てられていますが、平安期のお堂などがコンパクト化され石塔になり、現在のお墓になったと考えられます。

塔婆の登場
現在では、お墓とセットになっている塔婆ですが、平安中期くらいには短期的な墓標として、塔婆が利用されました。
年忌法要が延長され始める

10世紀までは一周忌が最後の法要でしたが、中国からの影響もあり十三回忌まで延長され、南北朝時代には三十三回忌まで普及していたそうです。

納骨の風習も起こる

1000年頃から、仏教の霊場に火葬骨を納める納骨信仰もおこってきます。比叡山や高野山、長野県の善光寺などに各地の寺院に納骨を希望する人々がいました。

 穢れ[ケガレ]の規定

967年から始まった延喜式[えんぎしき]という史料に穢れの規定があります。

ケガレには食肉や出産、火事なども含まれますが、その中で最も重いとされるのが…人の死…となり、ケガレが消滅するまで30日の謹慎となりました。

ケガレの起源や政治的な役割があったのか?…は、定かではありませんが、神事を行う上で…役人はケガレを避ける義務がありました。

中世

 鎌倉・南北朝時代

・鎌倉時代[1192 ~ 1333]
・南北朝時代[1336 ~ 1392]

鎌倉・南北朝時代の出来事

  • 平氏滅亡、源頼朝が鎌倉幕府をひらく
  • 遁世僧の出現によって、民衆の葬送・墓制が整えられる
  • 幕府内で北条氏による執権政治が始まり権力を持つ
  • 後醍醐天皇が挙兵、足利尊氏ら御家人の反乱により鎌倉幕府が終わる
  • 後醍醐天皇が政治を始めたが、足利尊氏ら武士側の離反を招き倒される
  • 足利尊氏が室町幕府(北朝)をひらき、後醍醐天皇が南朝を樹立する。
  • 足利義満の時代に南北朝が統一される

長い武家政権の始まりとなった時代ですが、葬送・墓制では主に鎌倉新仏教と言われる僧侶達が一般庶民の葬送を行い始めた点が最大の特徴です。

平安時代でも天皇や貴族の葬儀が僧侶によって行われていました。しかし、その僧侶は朝廷に仕える役人であり…神事にも携わっていたので、ケガレを非常に恐れていました。

「私達はケガレない…」 遁世僧の誕生

鎌倉時代以降…官僚僧侶としての道を歩まず、延暦寺を離れ、在家信者を獲得していった僧侶を遁世僧[とんせいそう]と呼びます。

遁世僧は、これまでの僧侶がタブーとしていたケガレに臆することなく葬送へ従事しました。

現在、お葬式の僧侶といえば…鎌倉時代から登場した宗派のお坊さんが非常に多いことに気付きます。

これまでの仏教宗派をまとめると…
旧仏教 奈良時代 ・三論宗
・成実宗
・法相宗
・倶舎宗
・華厳宗
・律宗
平安時代 ・天台宗
・真言宗
新仏教 鎌倉時代 ・浄土宗
・浄土真宗
・時宗
・臨済宗
・曹洞宗
・日蓮宗

テキストの赤字の教団が、鎌倉時代以降…積極的に葬送へ関わりました。

鎌倉時代に登場した新仏教ですが、当初は旧仏教勢力の弾圧などもあり、影響力を持ち始めるのは14世紀以降のようです。

遁世僧はケガレに対する独自の論理から、風葬が多かった一般庶民の葬送を整備し、やがて天皇家の葬儀も請け負うようになります。

なぜ…遁世僧は、多くの民衆に支持されたのか?

当時の他界観では、「あの世は、この世の続き…」と、考えられていました。

ですので、一般庶民からすると「死んでも貴族には慣れず、ずっと農民のまま…」という考えだったと思います。ところが、「死んだら…浄土という、素晴らしい場所に行って穏やかに過ごせるよ」...と、当時では画期的な思想を遁世僧が持ち込みました。

その思想が、浄土系宗派でお馴染みの「阿弥陀信仰」や「弥勒信仰」です。

各宗派の遁世僧達は、それぞれの信仰を広げ、葬儀の儀礼や墓を整備し在家信者を獲得していきました。同時に、死者をケガレた存在から仏として扱かったことも、平安時代までの僧侶と異なるポイントです。

のちに…葬式仏教と揶揄されますが、当時の民衆にとって僧侶は偉大な人々だっと思います。

僧侶による共同墓地や火葬場の造営


■ 共同墓地のイメージ

遁世僧による教団が成立し寺院の近くに共同墓地が運営されるようになり、この頃から、庶民で当たり前だった死体遺棄や風葬が次第に減少していきます。

また、寺院によっては火葬場を整備し、僧侶が自ら火葬の担い手としても活動します。

五輪塔など、石の墓の建立

■ 山梨県 景徳院より

鎌倉時代になると…有力者の菩提寺などに見られる、五輪塔[ごりんとう]宝篋印塔[ほうきょういんとう]が建てられ始めました。

中央:武田勝頼の宝篋印塔
両脇:勝頼夫人と長男の五輪塔

五輪塔や宝篋印塔は、現在のお墓のように…主に骨を埋葬した上に建てる石塔として作られました。

これらの石塔を作り始めたのは、鑑真が開祖となる律宗(南都六宗の1つ)の僧侶でした。平安期に、貴族の葬儀を担当していた僧侶は律宗僧が多かったようで、のちに…旧仏教ですが遁世僧として葬送に従事していきました。

また、当時…一人の財力で五輪塔などを建てるのは難しく、複数名で利用する共同墓として使われていたそうです。やがて、力のある有力者は、個人の墓として建てるようになりました。

なぜ、硬い石である必要があったのか?

当時、律宗教団の間では弥勒信仰が一般的で「釈迦が死んでから56億年くらいすると弥勒菩薩が新しい仏になって現れ…民衆を救済する…」というような信仰です。

自分達が救済される為には…自分の魂が宿る骨を見つけてもらう必要があります。そこで、骨の上に重い石を乗せれば…56億年経っても…どこかへ消えてしまう心配がなく、弥勒菩薩に見つけてもらえるのでは?…と考えたそうです。

高野山に戦国大名の墓が多くある理由は、高野山が将来…弥勒菩薩が現れる場所とされ、真っ先に自分が救済されるようと、こぞって墓を建てたから・・・とも言われています。

墓参りの始まり

骨が埋葬されている石塔が建てられるようになると、そこに故人の霊がいる…という観念が広まり、盂蘭盆などに墓参りがされ始めました。

 戦国時代・安土桃山時代

・戦国時代[1467-1568]
・安土桃山時代[1573-1603]

戦国・安土桃山時代の出来事

  • 足利幕府の家督争いにより応仁の乱が勃発
  • 幕府の権威が下がり、戦国時代へ
  • 15代義昭で足利幕府が滅亡
  • 浄土真宗8代法主・蓮如が大教団へ育てるも、西と東に分裂
  • 信長が本能寺で死亡、秀吉が天下統一
  • 秀吉の死亡後、関ヶ原の戦いから徳川幕府が始まる

名前の通り各地で、守護や守護代などの有力者が戦国大名化した時代ですが、葬送・墓制に関しては目立った動きはなかったようです。

また、庶民の中でも貨幣が流通し商工業が発達して…都市部の商人などは裕福な生活を送れていました。

小さな石塔を建てる人々

■ 一石五輪塔

■ 石仏

室町時代には、1つの石から五輪塔の形に削った一石五輪塔や小さな石仏を建てる人々の階層が広がりました。しかし、まだ一般庶民までは含まれないようです。

また、建てた時は墓の下に遺体やお骨がありましたが、後の墓地整理で動かされた可能性が高く、現在の霊園墓地とは異なり、石塔の下に遺骨などがあるかどうかは不明です。

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以上が、戦国時代までの葬送と墓制になります。

現代に通じる、葬送・墓制についての出来事をまとめると・・・

  • 縄文時代から故人を埋葬をし、先祖を大切にしていた。
  • 700年頃には天皇や貴族、豪族の間で火葬を執り行っていた。
  • 昔のお坊さんは…神事と葬儀を行っていて、葬儀はケガレるので、嫌がっていた僧侶もいた。
  • 災害や疫病の原因が解らないため、悪霊や祟りなどの迷信を心底信じていた。
  • 有力者の間でも、散骨や薄葬を希望する人もいた。
  • 平安時代には、旅支度や逆さ事、湯灌、納棺が行われていた。
  • 中世では、多くの庶民の遺体が破棄されおり風葬が普通だった。
  • 仏教=葬式・墓地…となったのは、鎌倉時代に登場した僧侶たちが、庶民の需要に合わせ、葬儀と墓地を供給したから
  • 鎌倉時代以降、小さな石塔で墓を作り始めた。

いかがだったでしょうか?

当時から葬儀やお墓にもブームやイレギュラー、常識がありました。しかし、それらが永遠に続く事はありません。

現在の葬送や墓制は、というと・・・都市部を中心に薄葬がトレンドだといえます。やはり、葬儀や墓にお金を掛けた時代の後には…薄葬の時代がやってきます。

後編では、豪族や有力者の代わり、庶民が次々と葬儀と墓に金をつぎこむ時代となります。ぜひ、引き続き後編もご覧ください。

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